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断夫山古墳


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断夫山古墳



ヤマトタケルとミヤズヒメのロマンを今に伝える史跡です。
所在地 愛知県名古屋市熱田区旗屋1-10-45
所有者 愛知県
指定年月日 昭和62年7月9日
概要 形状 前方後円墳
全長  150m
前方部の幅:120m
後円部の直径:80m
高さ  前方部:16m
後方部:13m

史跡とは

史跡とは、私たちの国の歴史を知る上で欠くことができず、またその学問上の価値もきわめて高い遺跡などのことです。

経緯

断夫山古墳は永らく熱田神宮の所属地として管理されていました。第二次世界大戦後、名古屋市の戦災復興事業として仮換地に伴い、愛知県都市公園として整備がすすめられ、昭和55年に愛知県の所有となりました。

昭和62年7月9日:国の史跡に指定

ヤマトタケルと断夫山古墳

『古事記』『日本書紀』では、「ヤマトタケルは東征の折、この尾張の地で豪族の娘ミヤズヒメと結婚の約束をかわしたが、東征の帰途病気がもとで死に、白鳥となり飛び去った」とあります。
この白鳥となったヤマトタケルの墓が白鳥古墳であり、ヤマトタケルへの思いを抱き、亡くなったミヤズヒメの墓が断夫山古墳であると伝えられています。このことから「夫を断つ山」断夫山古墳と名前がついたそうです。

断夫山古墳と尾張氏

前方後円墳の形は大和王朝が伝えた墳形です。
古墳の大きさは葬られた人物、その権力を受継いだ人物の支配力の強さを物語っています。
断夫山古墳の大きさから、大和王朝と密接に結びついた、尾張地方の強大な支配者であったことが推測され、『日本書紀』によると尾張連草香(おわりむらじのくさか)の娘「メコヒメ」が継体天皇(けいたいてんのう)の妃になったとあり、熱田台地に本拠地を構えていた「尾張氏の墳墓」との見解が有力となっています。
これまでに正式な発掘の実績がなく、手掛かりは少ないですが、他の古墳との関係性、墳形、わずかな出土品から推測すると5世紀末から6世紀初頭に築造されたものと考えられています。

お問合せ

愛知県 県民文化局
文化部 文化芸術課 文化財室
TEL:052-954-6783